帰ってきたブログ生活(2nd)

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【「能力」の生きづらさをほぐす】を読んで

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給料を容姿や家柄で決めるとなると一発で差別で問題だとわかるのに、能力で給料を決めるとなるととたんに説得力が増して納得してしまいそうになる。その能力とは何なのか?
組織開発の専門家で教育社会学を修めた著者の勅使川原真衣さんが実話や人材開発業界のビジネスに基づいて「能力」の正体を明かしていく本です。
時間軸は10数年後の設定で病でこの世を去った著者である母、社会に出て曖昧な「能力」に振り回される息子、高校生の娘との対話形式で書かれているので途中でコーヒーを飲んだり干し芋を食べるように優しく分かりやすい内容になっています。

結局は職場、上司ガチャ?

革命を起こす人材と期待され中途採用されたはいいが任される仕事は会社独自の議事録の作成と訂正ばかり。子育てで忙しい中、超ローカルルールな議事録の作成と修正の日々に堪忍袋の緒が切れて退職し新しい会社で水を得た魚のように生き生きと働くSさん
業務に関する質問をすると「こんなことも分からないのか!」と先輩方からモラハラを受け萎縮する毎日。ついに誰にも相談できないまま仕事を進めて大失態をしてしまいそれから職場では陰口を叩かれやり直しを決めて退職。転職先ではのびのびと働いて「仕事ができる人」とまで評価されるようになったWさん

これは著者が実際に本人たちから聞いた実話で、この二人は突然能力が開花したかと言われるとそうではない。職場環境次第で人は実力を発揮できるか、「使えない奴」と烙印を押されてしまう。能力があるかないかは上司が決める。その能力が何なのかは決める人によって違うし曖昧なもの。たくさんある仕事の中から自分の力を発揮できそうな会社を探して、実際に合うかどうかは入って働いてみないと分からないって果てしなくて途方に暮れてしまいそうな話だ…

社会が求める能力は時代によって変わる

「今まで協調性を重んじてきたがこれから社会に必要なのは個性です!」社会のそんな空気を敏感に感じ取りその個性を伸ばすべくカリキュラムを大胆に変えた大学がありました。志願者殺到でその大学の倍率がうなぎ上りになってきたころ、個性が大事と言われ学生時代に個性を磨いた新社会人たちを協調性がなく扱いにくいと感じる企業が増えていき、やがて社会は「やっぱり協調性が大事です」と逆戻り。その大学の人気はガタ落ちし大幅に変えたカリキュラムも再び変更せざるを得ませんでした。

こんなに社会が求める能力がコロコロ変わるんじゃ真面目に聞くのも馬鹿らしくなる。【能力は個人に求められるべきものと言うよりは組織が全体の機能として持っておくべきもの】と著者は述べています。
余談ですが私は流行りだしたころから「女子力」という言葉が大嫌いで今日死語になりつつあるのが嬉しくて仕方ありません。女に呪いをかけ女がすることはバカにしていいと呪いをかけるのを止めろや。

画一的な学校教育にも問題がある?

あなたの頑張り次第でなりたいものになれる!と教えてくれるのが義務教育ですが、みんなが平等にチャンスがあるように見えても実はひとりひとりの家庭環境(俗に言う親ガチャ)の差を見えにくくしていると教育社会学が何十年も前から問題点を指摘しています。教育社会学に関する本を読んでみたいな。
家庭環境やなんかの話をするとたまに「運も実力のうち」と個人の問題に落とし込もうとする人が必ずいますが、【実力も運のうち】だと著者。
そもそも学校って「学力はさておき目立ちすぎず、かと言って先生たちの手を焼かせることなく先生の言うことに反発せず疑問を抱かずしっかり従っていい子に卒業できればゴール」って見方もありますよね。これって今じゃ崩壊寸前の終身雇用社会で生きる前提の教育方針だったんだと薄気味悪くなった。
著者は義務教育を受けていたころ、学級委員をしていて強いリーダーシップでクラスで慕われ目立っていたことから担任の反感を買ってしまい、学級会で著者のどこが問題かをクラス全員巻き込んで話し合わされたことがありました。大問題すぎるだろ。前述した上司・職場ガチャと同じで一部の上司(担任)にとって気持ちのいいものが立派は能力で、気に入らないもの、気分を害するものは不要なものとされてしまう。担任も上司も自分で決められない、なのに自分たちの将来をどうとでもできてしまう絶大な権威を持っている。学校も会社も全部地続き。
「親・先生の言うことを聞け」と服従させ散々個性を潰しておいて、いざ社会に出たら個性を求めてくるのはおかしいといった類の批判がネット上で一定の頻度であがります。家、学校、会社で求められる能力に気づける人が上手くやっていけて、振り回される人が生きづらくなったり不登校・休職状態になってしまうのかな。と学生を終えた今そう感じています。

メンタルの不調は個人の問題にされがち

警備会社に勤めており研究室に配属されたYさん。最近寝坊による遅刻が増えたため会社から減給処分が下ろうとしています。
著者がYさんに会って話を聞くと、明るく社交的なYさんは職人質で自分の世界にのめりこむ研究者たちに会話どころか挨拶すら返してもらえません。もっと会話をして仲良くなれば…とYさんは交流を図りますが逆効果でどんどん居場所がなくなります。やがて夜は眠れなくなり遅刻が増えやる気のない奴だと評価されてしまったとの事。事情を会社に説明しても病院行って治してこい甘ったれんなと驚きの対応。もう打つ手なしと思われたところで著者が間に入り環境調整をサポートすることでYさんは眠れるようになり仕事も辞めずに済みました。
【個人の能力が低いの行きつく先が病院送りじゃ何の解決にもならない】と著者が言うようにこれは通院と服薬だけでは決して解決できなかった問題だと思います。
でも仕事による不調で通院なんて言ったら忍耐力がない!頑張りが足りない!普段からちゃんとコミュニケーションとってるの?とか返されそうで職場じゃ言いにくい。実際Yさんは相談した上で言われてるし。通院の前に職場に相談できるのが一番なんだろうけど全員がメンタルの不調→職場環境の調整の相談ができてれば心療内科が数か月も予約とれなくて待合室がごった返すわけないんだから。何とかしようとひとりで頑張ったけどどうにもならなくてもう心身が限界だから病院に駆け込むわけで。心療内科の待合室にいる人全員が必ずしも仕事による不調で通院しているとは限りませんが…。
【メンタルが強ければ良い、弱ければ悪いはそれこそ能力の序列化であり自己責任の発想】と指摘しますが、心身に不調が出る人が社会で増えたことによって職場のメンタルヘルスの重要性が解かれてきた側面もあると解説しています。
そしてメンタルの不調をとことん個人の問題と落とし込んであらゆるサービスを受けさせ金儲けをしているメンタルヘルス産業に怒りを覚えた。生きた人間のこと何だと思ってるんだ。

ものさしが存在する限り生きづらい。

「能力」で人を評価するのを辞めればいいんでしょ、じゃあこれからは「役に立つかどうか」で評価します!
もし能力という言葉が今後使われなくなっても、能力に代わった人を評価する言葉が生まれ次世代にまで呪いのように人々が得体の知れない曖昧なものに翻弄されてしまうことを著者は懸念しています。
持論で少し主旨からずれてしまいますが、これは仕事の能力に限らず現代のインターネットで「フォロワー数・いいねの数・再生回数・アクセス数」などのどれだけ人を動かせて注目されているかの物差しが目に見えて増えたことも別の生きづらさに繋がっていると感じます。
「そんな数字、気にしないで好きなようにやればいいのでは?」もごもっともですが、これらの数の多さで仕事のオファーが来るようになったインターネットが主流の現代で「個人」が気にしないように生きるのには限度がある。他人と自分の差が「数字」という物差しで表れてしまうのは人や時代によって定義が変わってくる「能力」よりもある意味ハッキリ分かりやすくてつらいのかもしれない…

人材開発業界のビジネスについて1ミリも書きませんでしたがどの章も非常に興味深い内容でした。
今すぐに能力至上主義能力社会をぶっ壊して変える ことはできないので、社会が生んだ曖昧なのに人を評価する物差しになっていて生きづらさに繋がっているものの正体を知って自分を強くして生きていくしかないのですね。

近くにいるからか最近よく思うんですが生きづらさの正体が暴かれたとき、社会のせいにするな!と吠えどうにかして個人の問題に落とし込もうとする人達ってそうなったら困る何かがあるんですかね。それか私はとんでもなく視野が狭く想像力のない人生はすべて自分の実力で掴んだものだと信じてやまない人間です!と回りくどい自己紹介をしているのか…